歌舞伎「男の花道」タラレバ話

今月、博多座では歌舞伎「男の花道」が上演されています

江戸時代に実在した蘭方医の土生玄碩(はぶげんせき)と歌舞伎役者の三代目加賀屋(中村)歌右衛門(かがや(なかむら)うたえもん)をモデルとした友情物語です

講談、落語などになり、昭和16(1941)年に長谷川一夫主演で映画化(小國英雄脚本、マキノ雅弘監督)されたものを舞台化されました

「男の花道」明治座

土生玄碩(はぶげんせき)の生涯

文化5年、大阪・道頓堀。中の芝居では歌右衛門の芝居が大当たり。しかしシーボルトからオランダ医学を学んだ名医、土生玄碩は、歌右衛門の目が悪いことを察知します。次第に目が見えなくなってくる歌右衛門は絶望のあまり死のうとしますが、玄碩の手術で完治、二人の間に厚い友情が生まれます。4年後、名実ともに名優となった歌右衛門は舞台の途中、玄碩の危急を知り…という展開です。

<博多座HP 博多座二月花形歌舞伎「みどころ」より引用させていただきました>

若き日の歌右衛門が眼病により役者生命が危ぶまれ死を覚悟した時に、玄碩が自分の医師生命をかけて治療し、これに恩義を感じた歌右衛門が後日、危機に瀕した玄碩を役者生命をかけて救うというのが話の骨子となっております

ここでは、清貧に甘んじても医の道を貫く名医として描かれていますね

 

では実像の土生玄碩はどんな医者だったのでしょう

略歴としてまとめてみました <木村専太郎クリニック様のHPより引用させていただきました>

宝暦十二年(1762)、安芸国(広島県)に代々眼科医をしていた土生義辰(初代玄碩)の長男として誕生。幼少期は不勉強で、成長してからも学問に身をいれることがなかった。
あるとき、馬医者が、馬の眼の化膿症を三角鍼で角膜を切開して排膿する場面に立会い、この眼を全快せしめた事例を経験した。この経験から、人間の眼疾の化膿症に対しも、同様の排膿を試みて好成績を経験していた。

京都で漢方医学塾の和田東郭(吉益東洞の門人)に師事し、同門の蘭方医との交流を深めていた。

故郷に帰り開業するが傲岸な性格のために患者が寄り付かず大阪で開業するもはやらず、按摩をして生活をしのいでいた。

そのとき出会った按摩の修業をしていた全盲の少年の白翳症(白内障)の手術に成功したことにより、眼科医として身をたてることができた。

三十歳を過ぎ、大阪から安芸へ戻り、眼科医として研鑽する一方、蘭方医学の勉強も励み続けた。その功績が認められ広島藩の藩医に四十二歳で抜擢される。

文化五年(1808)、広島藩浅野重晟侯の第六女で南部利敬侯に嫁いでいた教姫が、江戸で重症の眼病に罹り、江戸に住む有名な眼科医たちの治療効果はなかったために、玄碩は広島から招かれ加療が効を奏し、教姫は全快された。そのまま江戸に留まり芝町に居を構えた。

文化六年(1809)48歳になった玄碩は、第11代将軍徳川家斎侯に拝謁し、文化七年(1810)2月、奥医師を拝命、文化十年(1813)法眼に叙され、文政五年(1822)に、第十二代将軍徳川家慶の眼疾を治療した。

文政九年(1826)、オランダ商館の医官としてシーボルトが江戸参府した際、散瞳薬の実験を行って、江戸の医師たちを驚かせた。玄碩は散瞳薬(ベラドンナ)の製法を教示され、その謝礼として、将軍拝領の葵の紋服を進呈した。

文政十二年(1829)に「シーボルト事件」により、この件が露呈し、玄碩は失脚、閉門、座敷牢に入れられ、家財没収される。

後継者の玄昌が将軍の眼病を治療したことより、ようやく土生家は復興、玄碩も減刑され永蟄居となり、八十七歳で天寿を全うした。

 

物語では玄碩の生涯に起きた大きな出来事を時系列を入れ替えて、名医として描いているようですね。

物語では「風眼(ふうがん)」になっていた歌右衛門

劇中、玄碩が舞台上の歌右衛門を見て、目が見えていないことを見破り、「風眼(ふうがん)」にかかっていると告げます

風眼というのは、現代医学では膿漏炎という淋菌により結膜に化膿性炎症が起こる病気です

重症になると角膜に穴があいて、その結果失明してしまいます

現在では、重症化する前に抗生物質のペニシリンを投与することにより失明を防ぎます

 

江戸時代は風眼に対しては次のような処方が考えられたと思います

明朗飲(めいろういん):苓桂朮甘湯(茯苓・桂枝・朮・甘草)加 車前子・細辛・黄連

玄碩の師、和田東郭が用いた処方です

大青龍湯(だいせいりゅうとう)加 車前子

幕末の名医、浅田宗伯の著述「勿語方函口訣」には

大青龍湯(麻黄・杏仁・桂枝・大棗・甘草・乾生姜・石膏)「此方・・・又天行赤眼(流行性結膜炎、トラコーマ)、或ハ風眼(淋毒性結膜角膜炎)ノ初起、此方ニ車前子ヲ加エテ大発汗スルトキハ奇効アリ。蓋シ、風眼ハ目ノ疫熱ナリ、故ニ峻発ニ非ザレバ効ナシ。・・・・」

と書かれています

 

本当に風眼であれば、赤眼や大量の目ヤニなど初期症状で本人や眼科医も気づき、明朗飲や大青龍湯で治っていたかもしれません

重症化して角膜に穴があいて失明しかかっていたのなら、玄碩が得意とする三角鍼で角膜を切開して排膿することはできますが、それで見えるようになるのは、かなりの賭けになりそうです

シーボルト先生から学んだ方法で治すということであれば、それは風眼ではなくて白翳症(白内障)の手術で、散瞳薬(ベラドンナあるいはハシリドコロ)を使ったのではないでしょうか

 

史実と物語を照らし合わせると、つっこみどころは多少はあるでしょう

それでも玄碩と歌右衛門の人生の軌跡に、「道」に生きるものを観えたからこそ、この物語が生まれたのかもしれません

投稿者:

Hinatakaitendo

薬局開設者・管理薬剤師