喫漢方薬去 ~漢方をご一服

半夏厚朴湯(はんげこうぼくとう)をご存じですか

半夏厚朴湯を最近はご存じの方も増えました

同時に知ってるけど「何と読むかがわからないが夏なんとかという漢方薬飲んだら咳が良くなったのだけど」とおっしゃる方が多いようです

今回はそんな半夏厚朴湯についてお話したいと存じます

半夏厚朴湯という処方(レシピ)は五つの生薬を使います

生薬文字 半夏厚朴湯

 

   半夏(はんげ)   :サトイモ科カラスビシャクの塊茎

   茯苓(ぶくりょう) :マツの根に生じるサルノコシカケ科ブクリョウの菌核

   生姜(しょうきょう)ショウガ科のショウガの根茎

   厚朴(こうぼく)  :モクレン科植物の樹皮、あるいはホウノキの樹皮

   蘇葉(そよう)   :シソ科のシソの葉

 

半夏厚朴湯はどんな症状に効くのか

半夏厚朴湯の薬方は、漢方最古の古典である『傷寒雑病論』(しょうかんざつびょうろん)の慢性的に推移している病の篇『金匱要略』の「婦人雑病脈証併治第二十二」にあります

婦人、咽中如有炙臠、半夏厚朴湯主之

(婦人、咽中に炙臠有るが如きもの、半夏厚朴湯これを主る)

「傷寒雑病論」に出てくる薬方の条文をまとめ、方意を示した「類聚方」(吉益東洞 著)の「方極」には以下のように記されています

治咽中如有炙臠、或嘔、或心下悸者

(咽中に炙臠有るが如く、或は嘔し、或は心下悸する者を治す)

「咽中炙臠(いんちゅうしゃれん」とは、のどのあたりに炙った肉が張り付いているような感じがすることをさしています 気の鬱滞により起こり「梅核気(ばいかくき)」(梅干しのたねがのどにあるような感じ)とも言われます

この咽中炙臠を目標に、婦人に限らずいろいろな病気に応用されます

神経衰弱、ヒステリー、血の道症、不眠、ノイローゼ、うつ症状、食道狭窄症、胃下垂、胃アトニー、妊娠悪阻、月経不順、気管支炎、喘息、バセドー病、声枯れ、風邪の後の咳など

この処方が合う方は、手足や顔がむくむタイプが多いようです

漢方エキス製剤の添付文書の効能・効果には以下のように記されています

精神不安があり、咽喉から胸元にかけてふさがるような感じがして、胃部に停滞膨満感があるもの。

気管支炎、嗄声、咳嗽発作、気管支喘息、神経性食道狭窄、胃弱、心臓喘息、神経症、神経衰弱、恐怖症、不眠症、つわり、その他嘔吐症、更年期神経症、神経性頭痛

コタロー漢方製剤の添付文書より引用

このようにのどが腫れたあとや実態がなくてものどに違和感があるものに幅広く使えます

また胃腸や循環器、婦人科系の症状の処方に半夏厚朴湯を合わせて、気の鬱滞からくる症状の緩和に用いる機会があります

小柴胡湯に半夏厚朴湯を合わせた柴朴湯(さいぼくとう)などがそのひとつです

半夏(はんげ)のお話

漢方薬の方剤の名前には、構成している生薬すべてや主要な生薬の名前、方剤全体のイメージ、効能、それが使われていた地域や歴史的なことから由来しているという話を前回させていただきました

半夏厚朴湯は、構成している主要な生薬である「半夏」と「厚朴」から由来しているといってよいでしょう

このひとつ半夏(はんげ)についてのお話をしましょう

カラスビシャク

 

「半夏」は、カラスビシャクの塊茎を乾燥したものの生薬名です

『漢方養生談』(荒木正胤著)には、「悪心して嘔吐するを治す。かねて胃内停水、腹中の雷鳴、咽喉の腫痛、咳の出るものを治す。」とあります。

カラスビシャクはヘソクリという別名があります 塊茎がいかにもおへそをくりぬいた形をしていることから来たのとカラスビシャクを売ってこっそりお金を貯めたことから来たという話です

昔、農家の嫁は取りがたい草を掘り、つわりの薬である半夏を集めて妊娠に備えることが美徳とされた。ところがその嫁は集めた半夏を薬屋に売って、自分のお金を貯めるのに懸命であった。これがヘソクリの語源である。

『月刊 漢方療法ー中国の生薬⑪半夏』木村孟淳 著より引用させていただきました

 

半夏という生薬名からカラスビシャクと間違われやすいものに「半夏生(ハンゲショウ)」があります これはドクダミ科の植物で、名前の由来は葉の一部を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説と花が咲く時期(半夏生)からという説があります

ハンゲショウ

 

二十四節気の夏至(6/21~7/6頃)のうち七十二侯の末侯は半夏生(はんげしょうず)と言われてます

ちょうどこの時期に、カラスビシャクとハンゲショウの開花時期が重なることからどちらも「半夏」というようになったのではないかと言われています

時候の半夏生は夏至からかぞえて11日目ですが、現在では黄道100度の点を太陽が通過する日とするので今年は7月2日になります

この時期、関西では田植えを終えて豊作を祈るお供えにささげたことからタコを食べ、香川では小麦の収穫を祝ってうどんをうって食べる風習があるそうです

 

これから半夏生にむかって、気温や気圧も上昇するため、からだをめぐる氣の流れも乱れがちになります そのような時に半夏厚朴湯は心強い味方になります

甘茶ございます

四月八日は花まつり

花まつりという呼び方は明治以降からのようで、本来は灌仏会(かんぶつえ)、仏生会(ぶっしょうえ)と言い、お釈迦さまの誕生をお祝いする仏教の行事のひとつです

花まつりでは、お花で飾られたお堂(花御堂)の中に甘茶を入れたお盆(浴盆)を置き、そこにお釈迦様の誕生の姿をあらわした像(誕生仏)を安置し、柄杓で甘茶を頭上からそそぎます

これはお釈迦様が生まれた時に、九頭の龍が天から香ばしい甘露を吐いて産湯を満たしたという伝承がもとになっており、日本に仏教が伝来してまもなく推古天皇の頃はじめられたと言われています

江戸時代までは五香水を用いていましたが、明治以降、甘茶を使うようになったようです

 

この日に参拝し、甘茶をふるまわれて飲まれた方もいらっしゃるのではないでしょうか

「仏教ちょっと教えて」より一部引用させていただきました

甘茶の歴史

甘茶が人々に使われだしたのは江戸時代になってからのようです

ヤマアジサイの甘味のある成分変異株が民間で発見されたものとされています

日本特有のものなので、中国の生薬名はなく、したがって「漢方薬」ではなく、民間でひろくつかわれた薬草(生薬)といった位置づけになります

生薬としては、薬品の製造において丸剤の矯味や口腔清涼剤の原料として、エキスや粉末で使われています

薬草茶としてのアマチャは、生の葉ではなく手を加えて発酵させて甘くしたものを用います

夏に葉を採取し、水洗いした後、約2日間日干しし、これに水を噴霧し、むしろをかぶせて1日発酵させたのち、手で葉をよく揉んでさらに乾燥させてしあげます

アマチャ特有の甘味は、苦み成分のグルコフィロウルシンが発酵により加水分解されて甘味の強いフィロズルチンに変化することにより生じます

「養命酒」HPより引用させていただきました

甘茶の楽しみ方

甘茶

甘茶の作り方

・土瓶かやかんまたはステンレス、ホーローの鍋に水1リットルをいれます

・沸騰してきたら、甘茶2~3gを入れます

サポニン成分が含まれるため、泡立ちが強くなる時があるのでその時はかきまぜます

・ふたたび軽く沸騰したら火を止め、やけどしないようにかすをこします

かすをそのままにしておくと、タンニンが抽出されて苦く(えぐく)なります

*急須で少量作る場合は、お湯100ml~150mlに茶葉を2~3枚入れ、5分ほどおいて出来上がります

*葉には毒性はありませんが、濃い甘茶を飲むと吐き気嘔吐の症状が出た事例もあるので、上記の濃度以上にしないようにしてください

 

カフェイン含まず、カロリーもゼロなので、ダイエット中や糖尿病の食事治療をされている方が、甘味が欲しいときにハーブティーとして飲むこともできます

中枢神経を鎮静させる作用のあるサポニンを含有しているので、心を落ち着かせたい時やねる前の一杯にもおすすめです

その他に抗アレルギー作用や保湿、消炎作用なども報告されており、美容分野にも使われています

 

現在、甘茶は長野県の佐久でほどんど栽培されています

佐久ホテル 天茶

漢方薬局でも、取り扱っているところもあります

春を感じる健康的な和ハーブをいかがでしょうか♪

 

 

 

 

 

喫漢方薬去~漢方薬をご一服~

小青龍湯(しょうせいりゅうとう)をご存じですか

葛根湯の次に知名度が高い漢方薬と言えば、小青龍湯ではないでしょうか

この処方が脚光を浴びるようになったのは、鼻水がたらたらと出る花粉症の症状に使われるようになってからですね

こちらもエキス細粒剤で飲む機会が多いため、何種類の生薬が入っているのかご存じの方は少ないのではないでしょうか

今回はそんな小青龍湯についてお話したいと存じます

小青龍湯という処方(レシピ)は八つの生薬を使います

生薬文字 小青竜湯

 

   麻黄(まおう)   :マオウ科のマオウの地上部

   芍薬(しゃくやく) :キンポウゲ科のシャクヤクの根

   桂枝(けいし)   :クスノキ科の植物の皮

   生姜(しょうきょう):ショウガ科のショウガの根茎

   甘草(かんぞう)  :マメ科のカンゾウの根

   細辛(細辛)    :ウマノススクサ科ウスバサイシンの根

   五味子(ごみし)  :モクレン科チョウセンゴミシの果実

   半夏(はんげ)   :サトイモ科カラスビシャクの塊根

  

若草色の文字は桂枝湯(けいしとう)という「漢方薬の祖」と言われる処方の生薬です

小青龍湯桂枝湯から大棗を除き、麻黄、細辛、五味子、半夏を加えた処方となっております

小青龍湯はどんな症状に効くのか

漢方最古の古典である『傷寒雑病論』(しょうかんざつびょうろん)の小青龍湯は以下のように記されています

傷寒、表不解、心下有水気、乾嘔、発熱而喘、或渇、或利、或小便不利、少腹満、或喘者、小青龍湯主之

(傷寒、表解せず心下に水気有り、乾嘔し発熱して喘し、或は渇し、或は利し、或は小便利せずし、少腹満し、或は喘するもの、小青龍湯之を主る)

咳逆倚息、不得臥、小青龍湯主之  『痰飲咳嗽病脈証併治第十二』より

(咳逆倚息し、臥するを得ずるもの、小青龍湯之を主る)

「傷寒雑病論」には他にも小青龍湯に関する条文がいくつかあります

その「傷寒雑病論」に出てくる薬方の条文をまとめ、方意を示した「類聚方」(吉益東洞 著)の「方極」には以下のように記されています

治咳喘上衝頭痛発熱悪風乾嘔者

(咳喘、上衝、頭痛、発熱、悪風、乾嘔する者を治す)

みぞおちのところが張って、背中や手足が冷え、尿利が減少するのを目標に、気管支炎、気管支喘息、季節ごとにおこる咳嗽、喘息、鼻炎など水様の痰や鼻水、くしゃみを出し、顔の浮腫むものや、反対に尿意をしきりにもよおす者に使われます

この処方が合う方は、鼻水が透明で水っぽく、たらたらと流れ出て止まらないのがひとつの目安になります

漢方エキス製剤の添付文書の効能・効果には以下のように記されています

下記疾患における水様の痰、水様鼻汁、鼻閉、くしゃみ、喘鳴、咳嗽、流涙

気管支炎、気管支喘息、鼻炎、アレルギー性鼻炎、アレルギー性結膜炎、感冒

コタロー漢方製剤の添付文書より引用

小青龍湯は、鼻水がたらたら出ている時に服用すると、わりと早く症状が落ち着いてきます

漢方薬は長い期間服用しないと効果がないという印象をお持ちの方が多いと思いますが、小青龍湯はその印象をくつがえす漢方薬のひとつでしょう

花粉症など季節変化によっておこるものは、小青龍湯を服用した後、その症状を引き起こしやすくしている生活習慣の見直しをしたり、それを助ける漢方薬を服用することをおすすめします

 

小青龍湯は春の守り神

漢方薬の方剤の名前には、構成している生薬すべてや主要な生薬の名前、方剤全体のイメージ、効能、それが使われていた地域や歴史的なことから由来しています

例えば

苓桂朮甘湯(りょうけいじゅつかんとう)

茯苓(ぶくりょう)・桂枝(けいし)・朮(じゅつ)・甘草(かんぞう)から構成

葛根湯(かっこんとう)

葛根・麻黄・生姜・大棗・桂枝・芍薬・甘草から構成

補中益気湯(ほちゅうえっきとう)

人参・白朮・黄耆・当帰・陳皮・大棗・柴胡・乾姜・升麻から構成

胃腸(おなか:中)の滋養を補い、氣を益すという意味

といったものです

小青龍湯という名前は、古代中国の風水の「四神相応(しじんそうおう)」から来ていると言われています

上図はアロタン(アロマテラピーの語源のお話)のサイトより引用させていただきました

 

古代中国では都や重要な街を作るときに、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態とする風水の観点をとりいれていました

この東西南北の守りを四神と呼び、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎という四禽(動物)に例えました

以上Wikipediaより抜粋引用させていただきました

 

この観点は漢方薬にも取り入れられ、以下のように配せられています

北:玄武:冬:黒:真武湯(玄武湯);附子の黒い色から

南:朱雀:夏:赤:十棗湯;大棗の赤い色から

西:白虎:秋:白:白虎湯;石膏の白い色から

東:青龍:春:青:小青龍湯;麻黄の青い色から

春の季語である東風(こち)が吹いて、早春の風の寒さから、冷えのある方が鼻水が出だす時には小青龍湯を服用する、とうまくつながりますね

ちなみに青龍の名を持つ漢方薬に大青龍湯(だいせいりゅうとう)というものがあります

麻黄、桂枝、甘草、杏仁、生姜、大棗、石膏から構成されており、発熱・悪寒・身体疼痛するも発汗できず煩躁する状態の者に使われます

牛黄(ごおう)の話

牛黄とは

漢方薬はいくつかの生薬(薬草・鉱物・動物由来)を組み合わせ「方剤」として使う機会が多いのですが、単独の生薬で用いるものもいくつかあります

その中のひとつが牛黄(ごおう)という生薬です

牛黄は牛の胆のう中に生じた結石(胆石)で、『日本薬局方』にも収載されている生薬です

解熱、鎮痛、強心の効能があり、胆石を粉末にしたものを頓服で服用します

牛黄の歴史

牛黄が薬として認識されていた歴史は古く、古代の中国はもちろんのことインド、ペルシャから広まりヨーロッパにもあったようです

飛鳥時代に成立したといわれる日本最古の法典である大宝律令(700年頃)には、すでに馬や牛が死んだときに牛黄が見つかったら政府に献上するようにという記載があります

平安時代中期の貴族・源経頼の日記『左経記』には、献上用の牛が急死し、その処理にきた河原人が牛の体内にある黒い玉「牛黄」を見つけて持ち去るが、検非違使がそのことを聞きつけて牛黄を差し出させ、感激て経頼に語ったことが書かれています

また大乗仏教の経典である「金光明最勝王経」に「瞿蘆折娜(くろせつな)」という牛黄を意味するサンスクリット語が書かれています

このように牛黄は、朝鮮半島や中国大陸からの渡来人によって仏教とともに伝わったのではないでしょうか

牛黄の精神性

牛黄は高貴薬(希少性がありそれに代わるものがない薬)であり、仏教や神道とも関わりがあるため、生薬としての身体への薬効のみならず、病のような鬼氣を払うもの、神聖なものとしてあつかわれてきています

薬師寺 花会式(修二会)

修二会とは奈良の大寺が国家の繁栄と五穀豊穣、万民豊楽などを祈る春の行事です。修ニ会とある通り、この法要は2月に行われるのですが、薬師寺の場合は旧暦の2月末に行われていた事から、そのまま新暦に直して3月25日から3月31日にかけて行われています。春先に東大寺に修二会お水取りという俗称がついたように薬師寺修二会には十種の造花がご本尊に供えられるところから「花会式」と呼ばれ、「奈良に春を告げる行事」として親しまれています。花会式(修二会)に参篭する僧のことを「練行衆[れんぎょうしゅう]」と言い、最終日の3月31日の夜には「鬼追式[おにおいしき]」が法要の結願[けちがん]を飾ります。

薬師寺ホームページより引用させていただきました

この修二会の満行の後、結縁者には「牛玉札(ごおうふだ)」が授与されます

薬師寺花会式 牛玉札

 

これは「薬師寺吉祥法印」と刷られた和紙に牛黄を混ぜた染料で印が押してあります

陽回天堂薬局 牛玉札

 

熊野大社 熊野牛王宝印

牛王宝印とは、神社や寺院が発行するお札、厄除けの護符のことです。牛王神符ということもあります。
牛王宝印は、厄除けのお札としてだけでなく、裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す誓紙としても使われてきました。牛王宝印によって誓約するということは、神にかけて誓うということであり、もしその誓いを破るようなことがあれば、たちまち神罰を被るとされていました。

様々な寺社から発行されていた牛王のなかで最も神聖視されていたのが、熊野の牛王でした。とくに武将の盟約には必ずといっていいほど、熊野牛王が使われたそうです。

熊野の神への誓約を破ると、熊野の神のお使いであるカラスが三羽亡くなり、誓約を破った本人は血を吐いて地獄に堕ちるとされていました。
また、熊野牛王を焼いて灰にして水で飲むという誓約の仕方もありました。熊野牛王を焼くと熊野の社にいるカラスが焼いた数だけ死ぬといわれ、その罰が、誓約を破ったその人に当たって即座に血を吐くと信じられ、血を吐くのが恐くて、牛王を飲ますぞといわれると、心にやましいものがある者はたいがい飲む以前に自白をしたそうです。

熊野牛王は誓約に用いられた他、家の中や玄関に貼れば、盗難除けや厄除け、家内安全のお札としても用いられました。

み熊野ねっとホムページより抜粋引用させていただきました

陽回天堂薬局 牛王宝印

身体的な効能だけでなく、神聖なものとして、仏教、神道、修験道に関わる人々、時の権力者などに大切に使われてきました

現在でも、心身両方の効果を期待して、音楽や舞台に立つ芸術家の方、海外旅行に行く方、人前で話をする方が牛黄をお求めになります

 

生薬としての牛黄

 

牛黄は丸い玉状あるいは玉が砕けている状態で入手できます

牛黄 砕

 

これを服用しやすいように乳鉢で粉末状にして、1回量0.1gに分包します

牛黄 分包品

強心作用、赤血球新生促進作用、解熱作用、鎮静作用、鎮痙作用、肝臓保護作用、利胆作用、血圧降下作用、末梢神経障害改善作用、抗炎症作用、抗ウイルス作用、抗酸化作用などが知られており、幅広く慢性的な症状から緊急・救命薬としても使えます

水戸黄門の印籠にも入っていたと言われる牛黄、いざという時のためにご用意されてみてはいかがでしょうか

歌舞伎「男の花道」タラレバ話

今月、博多座では歌舞伎「男の花道」が上演されています

江戸時代に実在した蘭方医の土生玄碩(はぶげんせき)と歌舞伎役者の三代目加賀屋(中村)歌右衛門(かがや(なかむら)うたえもん)をモデルとした友情物語です

講談、落語などになり、昭和16(1941)年に長谷川一夫主演で映画化(小國英雄脚本、マキノ雅弘監督)されたものを舞台化されました

「男の花道」明治座

土生玄碩(はぶげんせき)の生涯

文化5年、大阪・道頓堀。中の芝居では歌右衛門の芝居が大当たり。しかしシーボルトからオランダ医学を学んだ名医、土生玄碩は、歌右衛門の目が悪いことを察知します。次第に目が見えなくなってくる歌右衛門は絶望のあまり死のうとしますが、玄碩の手術で完治、二人の間に厚い友情が生まれます。4年後、名実ともに名優となった歌右衛門は舞台の途中、玄碩の危急を知り…という展開です。

<博多座HP 博多座二月花形歌舞伎「みどころ」より引用させていただきました>

若き日の歌右衛門が眼病により役者生命が危ぶまれ死を覚悟した時に、玄碩が自分の医師生命をかけて治療し、これに恩義を感じた歌右衛門が後日、危機に瀕した玄碩を役者生命をかけて救うというのが話の骨子となっております

ここでは、清貧に甘んじても医の道を貫く名医として描かれていますね

 

では実像の土生玄碩はどんな医者だったのでしょう

略歴としてまとめてみました <木村専太郎クリニック様のHPより引用させていただきました>

宝暦十二年(1762)、安芸国(広島県)に代々眼科医をしていた土生義辰(初代玄碩)の長男として誕生。幼少期は不勉強で、成長してからも学問に身をいれることがなかった。
あるとき、馬医者が、馬の眼の化膿症を三角鍼で角膜を切開して排膿する場面に立会い、この眼を全快せしめた事例を経験した。この経験から、人間の眼疾の化膿症に対しも、同様の排膿を試みて好成績を経験していた。

京都で漢方医学塾の和田東郭(吉益東洞の門人)に師事し、同門の蘭方医との交流を深めていた。

故郷に帰り開業するが傲岸な性格のために患者が寄り付かず大阪で開業するもはやらず、按摩をして生活をしのいでいた。

そのとき出会った按摩の修業をしていた全盲の少年の白翳症(白内障)の手術に成功したことにより、眼科医として身をたてることができた。

三十歳を過ぎ、大阪から安芸へ戻り、眼科医として研鑽する一方、蘭方医学の勉強も励み続けた。その功績が認められ広島藩の藩医に四十二歳で抜擢される。

文化五年(1808)、広島藩浅野重晟侯の第六女で南部利敬侯に嫁いでいた教姫が、江戸で重症の眼病に罹り、江戸に住む有名な眼科医たちの治療効果はなかったために、玄碩は広島から招かれ加療が効を奏し、教姫は全快された。そのまま江戸に留まり芝町に居を構えた。

文化六年(1809)48歳になった玄碩は、第11代将軍徳川家斎侯に拝謁し、文化七年(1810)2月、奥医師を拝命、文化十年(1813)法眼に叙され、文政五年(1822)に、第十二代将軍徳川家慶の眼疾を治療した。

文政九年(1826)、オランダ商館の医官としてシーボルトが江戸参府した際、散瞳薬の実験を行って、江戸の医師たちを驚かせた。玄碩は散瞳薬(ベラドンナ)の製法を教示され、その謝礼として、将軍拝領の葵の紋服を進呈した。

文政十二年(1829)に「シーボルト事件」により、この件が露呈し、玄碩は失脚、閉門、座敷牢に入れられ、家財没収される。

後継者の玄昌が将軍の眼病を治療したことより、ようやく土生家は復興、玄碩も減刑され永蟄居となり、八十七歳で天寿を全うした。

 

物語では玄碩の生涯に起きた大きな出来事を時系列を入れ替えて、名医として描いているようですね。

物語では「風眼(ふうがん)」になっていた歌右衛門

劇中、玄碩が舞台上の歌右衛門を見て、目が見えていないことを見破り、「風眼(ふうがん)」にかかっていると告げます

風眼というのは、現代医学では膿漏炎という淋菌により結膜に化膿性炎症が起こる病気です

重症になると角膜に穴があいて、その結果失明してしまいます

現在では、重症化する前に抗生物質のペニシリンを投与することにより失明を防ぎます

 

江戸時代は風眼に対しては次のような処方が考えられたと思います

明朗飲(めいろういん):苓桂朮甘湯(茯苓・桂枝・朮・甘草)加 車前子・細辛・黄連

玄碩の師、和田東郭が用いた処方です

大青龍湯(だいせいりゅうとう)加 車前子

幕末の名医、浅田宗伯の著述「勿語方函口訣」には

大青龍湯(麻黄・杏仁・桂枝・大棗・甘草・乾生姜・石膏)「此方・・・又天行赤眼(流行性結膜炎、トラコーマ)、或ハ風眼(淋毒性結膜角膜炎)ノ初起、此方ニ車前子ヲ加エテ大発汗スルトキハ奇効アリ。蓋シ、風眼ハ目ノ疫熱ナリ、故ニ峻発ニ非ザレバ効ナシ。・・・・」

と書かれています

 

本当に風眼であれば、赤眼や大量の目ヤニなど初期症状で本人や眼科医も気づき、明朗飲や大青龍湯で治っていたかもしれません

重症化して角膜に穴があいて失明しかかっていたのなら、玄碩が得意とする三角鍼で角膜を切開して排膿することはできますが、それで見えるようになるのは、かなりの賭けになりそうです

シーボルト先生から学んだ方法で治すということであれば、それは風眼ではなくて白翳症(白内障)の手術で、散瞳薬(ベラドンナあるいはハシリドコロ)を使ったのではないでしょうか

 

史実と物語を照らし合わせると、つっこみどころは多少はあるでしょう

それでも玄碩と歌右衛門の人生の軌跡に、「道」に生きるものを観えたからこそ、この物語が生まれたのかもしれません