喫漢方薬去<KKPK>~漢方薬をご一服

葛 根 湯(かっこんとう)をご存じですか

漢方薬の中で、なじみがあると言われるひとつに葛根湯があります

風邪の引き始めに飲まれた経験がある方がほとんどだと思いますが、その他にも幅広く使われます

またエキス細粒剤で飲む機会が多いため、何種類の生薬が入っているのか医療関係者でも知らないことがあります

今回は葛根湯についてお話したいと存じます

葛根湯という処方(レシピ)は七つの生薬を使います

生薬文字 葛根湯
葛根湯 生薬文字

   葛根湯の生薬で文字を作ってみました。「根」の字が失敗(;^_^A

   葛根(かっこん)  :マメ科のクズの根

          麻黄(まおう)   :マオウ科のマオウの地上部

   桂枝(けいし)   :クスノキ科の植物の皮

   芍薬(しゃくやく) :キンポウゲ科のシャクヤクの根

   甘草(かんぞう)  :マメ科のカンゾウの根

   大棗(たいそう)  :クロウメモドキ科のナツメの果実

   生姜(しょうきょう):ショウガ科のショウガの根茎(できれば生が良い)

若草色の文字の桂枝・芍薬・甘草・大棗・生姜桂枝湯(けいしとう)という「漢方薬の祖」と言われる処方を構成しています

つまり、葛根湯桂枝湯に葛根と麻黄を加えた処方となっております

 

葛根湯はどんな症状に効くのか

漢方最古の古典である『傷寒雑病論』(しょうかんざつびょうろん)の葛根湯の処方の冒頭には以下のように記されています

太陽病項背強几几無汗悪風葛根湯主之

(太陽病、項背強ること几几、汗無く悪風するもの、葛根湯之を主る)

「傷寒雑病論」には他にも葛根湯に関する条文がいくつかあります

その「傷寒雑病論」に出てくる薬方の条文をまとめ、方意を示した「類聚方」(吉益東洞 著)の「方極」には以下のように記されています

治項背強急発熱悪風或喘或身疼痛者

(項背強急し、発熱悪風し、或は喘し、或は身疼痛する者を治す

これらより、首から背中にかけてのコリがあり、皮膚が湿っぽくないこと(汗をかいてない)を目標に風邪の初めに使われます

また風邪で下痢をするもの(腹痛がほとんどない)にも用います

慢性的で首から上に症状があるものには、この薬方やこれにいくつか生薬を加味しても用います

 

漢方エキス製剤の添付文書の効能・効果には以下のように記されています

頭痛、発熱、悪寒がして、自然発汗がなく、項、肩、背などがこるもの、あるいは下痢するもの。

感冒、鼻かぜ、蓄膿症、扁桃腺炎、結膜炎、乳腺炎、湿疹、蕁麻疹、肩こり、神経痛、偏頭痛。

コタロー漢方製剤の添付文書より引用

葛根湯=風邪薬のイメージが強いのですが、薬方の方意をくみとることにより、風邪などの急性の症状だけでなく、肩こり、神経痛などのやや慢性の症状にも用いることができます

ご相談をいただいた症例の中に、頭部の帯状疱疹(初期)、顔面神経痛、三叉神経痛などに葛根湯または葛根湯にいくつかの生薬を加味した処方(葛根湯加辛夷川芎、葛根湯加桔梗石膏など)を用いたことがあります(いずれも病院を受診した後のご相談です)

 

「葛根湯医者」は迷医?or名医?

古典落語に「葛根湯医者」という小噺があります

葛根湯医者というのがございまして、こいつは無闇に、葛根湯ばかり飲ませたがる。

「お前さんはどこが悪いんだ?」
「先生、どうも、頭が痛くてしょうがねぇんですがねぇ。」
「んー、頭痛だなぁ、そりゃ。葛根湯、やるから、飲んでごらんよ。」
「お前さんは?」
「腹がしくしくいてえ(痛い)んです。」
「腹痛てえんでぇ、そりゃ。葛根湯やるから、お飲み。そっちのほうの方は?」
「どうも、足が痛くって、しょうがないんですがねぇ。」
「足痛てえんだよ、そりゃ。葛根湯やるから、一生懸命、お飲み。その後ろの人は?」
「先生、あっしは、目が悪くってねぇ。」
「ん、そりゃ、いけないなぁ。目は眼(まなこ)といってなぁ、一番、肝心なところだぞぉ。
葛根湯やるから、せいぜい、お飲み。その隣の方は?」
「いや、兄貴が目が悪いから、一緒に付いて来たんで。」
「そりゃ、ご苦労だなぁ。退屈だろう。葛根湯やるけど、飲むか?」

*『落語小噺の部屋』http://raku5kobanashi.seesaa.net/article/125157273.htmlより引用させていただきました。柳家小さん師匠バージョンです。

むやみに葛根湯しか出さない医者のむやみさの極みがオチなんでしょうね(笑)

よく見ると、頭痛、腹痛、足痛、目の症状に葛根湯を用いるのは、薬方の方意としては合っているとも言えます(実際はもっと詳しく症状を聴きます!)

そして最後の付き添いの方も、目の悪い兄貴を連れて歩いてきたら肩こりや筋肉痛にもなる可能性もあるので葛根湯を飲むのもアリですね

葛根湯の使い道を知り尽くしているということで、葛根湯医者は実は名医なのかもしれません

薬の神様

薬の神様 少彦名神社

大阪道修町(どしょうまち)にある少彦名神社は、薬の神様をお祀りしていることで知られています

神社のサイトなどにはこの由緒について次のように書かれています

道修町は豊臣秀吉の時代から薬種取引の場として栄え、江戸時代になると幕府から道修町の薬種商124軒は株仲間として漢方薬や和薬の適性検査をして、全国へ売りさばく特権を与えられました

薬の吟味は人命に関わるものであることから、神のご加護によって職務を正しく遂行しようと、安永九年(1780年)京都の五条天神より少彦名命を薬種仲買仲間の寄合所にお招きし、以前より祀っていた神農炎帝(古代中国の薬の神)とともにお祀りしたのが始まりです

【ご祭神】

少彦名命(すくなひこのみこと)

日本医薬の祖神 神皇彦靈神(かんむすびのかみ;万物生成の神)の子

常世の神:国造りの神(大国主命)の協力神、酒神、温泉神穀霊、まじないなど多彩な能力を持つ

神農炎帝(しんのうえんてい)

中国医薬の祖神 商売の神:百草を嘗めて効能を確かめ、医薬と農耕を諸人に教えた

漢方薬が貴重品であり、人命に直結するものとして真摯に取り扱っていたことがわかります

生薬(薬草)を取り扱うものの心構えを思い出すところでもあります

張子の虎

少彦名神社の御守りひとつに張子の虎があります

この由来については、次のように書かれてあります

文政五年の秋、疫病(コレラ)流行して万民大いに苦しむ

これにより、道修町薬種商相議り、疫病除薬として虎頭骨等を配合し、虎頭殺鬼雄黄円(コトウサッキオウエン)という丸薬を施与すると共に、張子の虎をつくり、神前祈願を行い、病除御守として授与する。古人、病を療するに薬を服用すると共に又、神の加護を祈る用意の周到なること誠に想うべきものなり。

年末に漢方薬のメーカーの方から、この少彦名神社の張子の虎をいただきました

漢方薬を取り扱うものとして、身が引き締まる思いがします

大掃除をした薬局にお祀りして新年を迎えたいと存じます

お屠蘇

屠蘇の由来

~立石春洋堂より引用

嵯峨天皇の御代に、蘇明(そうめい)という唐の博士が和唐使(からつかい)として来朝のみぎり、絹の袋に入れた屠蘇白散(とそさん)と称する靈薬(くすり)を献上しました

天皇は元旦より三が日清涼殿の廂(ひさし)に出御されて四方拝の御儀式の後、御酒に屠蘇を浸して用いられたのが始まりのようです

これが宮中の年中行事となり、江戸時代になり、庶民の間に広まりました

屠蘇散の処方

古代中国、明の時代に学者李時珍が編集した『本草綱目』には、赤朮・桂心・防風・抜契・大黄・烏頭・赤小豆とあります

時代や地域により、処方は異なりますが、現在では山椒・細辛・防風・肉桂・乾姜・白朮・桔梗などを用いるのが一般的です

屠蘇散の作り方

およそ一合(180cc)の清酒、みりんに袋(抽出用にパックされたもの)を大晦日の晩に浸します

約六~七時間でできあがります

ご家庭や地域により赤酒を使ったり、お腹に優しい梅酒を使ったりするところもございます

屠蘇散と漢方

江戸時代あたりから、医者(漢方医)が薬代の返礼として、屠蘇散を配る風習があります

陽回天堂薬局では、(株)立石春洋堂の「屠蘇」を取り扱いしております

漢方薬をご購入のお客様にお渡ししていますので、来る新春はお屠蘇をお召し上がりくださいませ

 

 

 

漢方の視座(観点)

現代の医療では、痛みをはじめ体調が思わしくなければ、医師の診察を受けます。

そして、病気と診断されれば、それにともなって治療がはじまります。

病気であることを示す「病名」がつくには、検査結果や自他覚症状がある基準(ガイドライン)を満たすことが必要です。

つまり「病気」になって、はじめて「治す」ことがはじまるのです。

 

それでは、現代のような医療が確立される以前は、どうしていたのでしょう。

 

人々は身近にある植物を体内に取り入れることによって、病気を治していました。

最初は、その人にあらわれている症状を緩和するものを偶然(直感やインスピレーションで)みつけて取り入れたのかもしれません。

経験が積み重なることで、特徴のある症状を示すものに名前(病名)をつけ、すみやかに確実に適切な植物を選べるようになっていったのです。

 

その流れが世界中でさまざまな植物療法を生み出しました。

 

現在、漢方と呼ばれるものは、後漢の時代に『傷寒雑病論』という書物(当時は木簡に書かれていた)にある植物療法に端を発するものです。

 

漢方の特徴は、いくつか動物や鉱物由来のものもありますが、植物の花や葉や根を乾燥したもの(生薬)を数種類、一定の割合で組み合わせたものをひとつの薬として扱うことにあります。

それぞれの生薬の効果の総和としてではなく、組み合わせ全体としての効果をみるのです。

ある料理でひとつひとつの素材の味がすべて感じられるのではなく、料理全体としておいしいといったことに似ています。

 

また病気に関する概念も現代医療とは異なっています。

 

健康な体が何らかの原因で不調和を起こした時に、自然治癒する場合はどのような経過をたどるかがまず書かれています。

その後、自然治癒しない場合の症状に対しての方剤(漢方薬の処方)が述べられ、どのような経過をたどるかに続きます。

不調和を起こしている時の症状、例えば、発熱、下痢、出血などに「病気」を観ているのではなく、そういった症状は不調和なものを体外に出そうとして起こっていることとして、それを助けるような方剤を選ぶのです。

自然治癒としての発熱は病原菌が活動できないようにするため、下痢は毒物や冷えなどを出すためなどです。

そこに漢方薬の働きとして「汗・吐・下・和」法という方向があります。

「汗」は、汗として皮膚から出す、「吐」は、口から吐き出す、「下」は、大小便としてくだす、「和」は緩やかに汗や小便に変えて出すというものです。

 

このように漢方は「人は本来自然に治癒する力をもっている」という視座に立っていると言えます。

「漢方」について

漢 方

これから述べる内容は、漢方を学ぶ途中でであった書籍などから引用させていただいています

【主な引用書籍】

荒木正胤著『漢方養生談』/矢数道明著『明治110年 漢方医学の変遷と将来 漢方略史年表』

漢方の特徴

世界各国にある伝統的な植物療法のひとつに「漢方」があります

この漢方を大きく特徴づけているものは何でしょうか

それは古代中国で天体の運行、気候の変化、自然環境の推移、植物の生長を観察し、それを身体を通して感得した哲理に基づいて、病を治す方針を決定し、理論体系化ていることにあります

時代の移り変わる中で勢力のある国(王朝)の地域の変遷、漢方の理論体系である陰陽五行説の意味に変遷と発達があるため、治療法の中心となるものも変化しています

このことより、漢方には大きく分けて、薬方(薬草など)を用いるもの、鍼灸を用いるもの、養生に関するものがあります

 

日本における漢方薬(薬方部門)

わが国は飛鳥時代、百済(韓国)と交流があったため、はじめは韓医方として漢方は伝わりましたが、そのうち遣隋使・遣唐使の派遣などを通して、直接中国から医術を伝えました

その後のわが国における漢方の流れの概要は次のようになります

 

奈良~平安中期:隋・唐の在来の医術のほか、インドの仏教医術を混合したもの

平安後期~鎌倉初期:宋の医術で、中国伝統医術と仏教医術が融合した独特なもの

鎌倉中期~室町中期:学問的な自由思想が行われ医学上、はじめて流派というものが生まれ、

わが国もその影響をうける

室町中期~江戸中期:元時代の全身栄養状態の向上と、体力増進主眼とする李朱学派の医学

田代三喜が学び、弟子の曲直瀬道三に伝える

曲直瀬道三が宋・金・元の医術体系を整理し、独自の医学を完成する

江戸中期~江戸後期:わが国で復古学が唱えられ、漢時代の漢方に還らねばならぬという主張

がおこり、吉益東洞『傷寒論』の薬方を臨床的に追試して独自の医術

          体系を組織する

このように室町中期あたりから、わが国では歴代中国の医術から学び、独特の医学を構築していく流れがおこり、多くの医聖があらわれました

明治維新により西欧諸国の仲間入りを果たすべく、政府はドイツ医学採用を提唱し、明治七年(1874年)医制を発布、翌年の医術開業試験は西洋七科の制(物理、化学、解剖、生理、病理、薬剤、内外科と、眼科、産科、口中科の中の一つ選択)となり、明治十六年(1883年)に『医術開業試験規則及医師免許規則』を発布し、漢医存続の道は厳しいものとなりました

この間、漢方医家たちはわが国独自の医術を存続させようと、漢方六科の編纂にはじまる漢方六賢人の会合による理論闘争、いわゆる「漢洋脚気相撲」による治療闘争、和漢医師開業免許の議会請願を目的とした帝国和漢医総会による議会闘争にまでおよびましたが、明治二十八年(1895年)漢医提出の医師免許規則改正法案は議会において否決され、漢医存続の道は絶たれることになりました

その後も和漢薬の研究は進められ、伝統医学として日本の漢方のすぐれていることを論じた本が執筆され、その影響を受けて漢方を学びすぐれた実績を残す医師もいました

代表的な著作:和田啓十郎『医界之鉄椎』、湯本求眞『皇漢医学』三巻

昭和初期になると、国粋主義や復古思想の勃興により、漢方にも復興の気運が高まり、漢方医学書や雑誌の発刊が盛んに行われ、先哲の著作の解説や臨床研究を通して、日本の漢方の流れは引き継がれていきました

戦後になると、アメリカからの精神身体医学の導入、ドイツ・フランスにおける東洋医学の研究の開始、中国の漢方医と西洋医の相互理解・学修による総合的な共同研究での治療成果、化学薬品の副作用問題のクローズアップなどが誘因となり、漢方医学の復興の勢いが強まりました

東洋医学に関する学会、漢方の流派による私塾・研究会、セミナーなどが活発になり、さらに東洋医学・漢方関係の書籍・雑誌の発刊が盛んになりました

また漢方薬の製薬会社で、生薬から抽出したエキスを細粒や錠剤に製剤するようになり、漢方を推進する各界の流れもあり、昭和42年(1967年)に健康保険(薬価基準)に漢方エキス剤6品目が初収載されました

このように「漢方医」というもの存続は絶たれたものの、漢方薬を用いて人々の健康を守るという道は先人のはかりしれない努力と研鑽により存続し、これまでに確立された流派も残っています

医師の処方によるもの、一般用医薬品として薬局で販売しているもの、薬局製剤として漢方相談薬局で販売しているものと、現在でも漢方薬は身近なところにありつづけています