「漢方」について

漢 方

これから述べる内容は、漢方を学ぶ途中でであった書籍などから引用させていただいています

【主な引用書籍】

荒木正胤著『漢方養生談』/矢数道明著『明治110年 漢方医学の変遷と将来 漢方略史年表』

漢方の特徴

世界各国にある伝統的な植物療法のひとつに「漢方」があります

この漢方を大きく特徴づけているものは何でしょうか

それは古代中国で天体の運行、気候の変化、自然環境の推移、植物の生長を観察し、それを身体を通して感得した哲理に基づいて、病を治す方針を決定し、理論体系化ていることにあります

時代の移り変わる中で勢力のある国(王朝)の地域の変遷、漢方の理論体系である陰陽五行説の意味に変遷と発達があるため、治療法の中心となるものも変化しています

このことより、漢方には大きく分けて、薬方(薬草など)を用いるもの、鍼灸を用いるもの、養生に関するものがあります

 

日本における漢方薬(薬方部門)

わが国は飛鳥時代、百済(韓国)と交流があったため、はじめは韓医方として漢方は伝わりましたが、そのうち遣隋使・遣唐使の派遣などを通して、直接中国から医術を伝えました

その後のわが国における漢方の流れの概要は次のようになります

 

奈良~平安中期:隋・唐の在来の医術のほか、インドの仏教医術を混合したもの

平安後期~鎌倉初期:宋の医術で、中国伝統医術と仏教医術が融合した独特なもの

鎌倉中期~室町中期:学問的な自由思想が行われ医学上、はじめて流派というものが生まれ、

わが国もその影響をうける

室町中期~江戸中期:元時代の全身栄養状態の向上と、体力増進主眼とする李朱学派の医学

田代三喜が学び、弟子の曲直瀬道三に伝える

曲直瀬道三が宋・金・元の医術体系を整理し、独自の医学を完成する

江戸中期~江戸後期:わが国で復古学が唱えられ、漢時代の漢方に還らねばならぬという主張

がおこり、吉益東洞『傷寒論』の薬方を臨床的に追試して独自の医術

          体系を組織する

このように室町中期あたりから、わが国では歴代中国の医術から学び、独特の医学を構築していく流れがおこり、多くの医聖があらわれました

明治維新により西欧諸国の仲間入りを果たすべく、政府はドイツ医学採用を提唱し、明治七年(1874年)医制を発布、翌年の医術開業試験は西洋七科の制(物理、化学、解剖、生理、病理、薬剤、内外科と、眼科、産科、口中科の中の一つ選択)となり、明治十六年(1883年)に『医術開業試験規則及医師免許規則』を発布し、漢医存続の道は厳しいものとなりました

この間、漢方医家たちはわが国独自の医術を存続させようと、漢方六科の編纂にはじまる漢方六賢人の会合による理論闘争、いわゆる「漢洋脚気相撲」による治療闘争、和漢医師開業免許の議会請願を目的とした帝国和漢医総会による議会闘争にまでおよびましたが、明治二十八年(1895年)漢医提出の医師免許規則改正法案は議会において否決され、漢医存続の道は絶たれることになりました

その後も和漢薬の研究は進められ、伝統医学として日本の漢方のすぐれていることを論じた本が執筆され、その影響を受けて漢方を学びすぐれた実績を残す医師もいました

代表的な著作:和田啓十郎『医界之鉄椎』、湯本求眞『皇漢医学』三巻

昭和初期になると、国粋主義や復古思想の勃興により、漢方にも復興の気運が高まり、漢方医学書や雑誌の発刊が盛んに行われ、先哲の著作の解説や臨床研究を通して、日本の漢方の流れは引き継がれていきました

戦後になると、アメリカからの精神身体医学の導入、ドイツ・フランスにおける東洋医学の研究の開始、中国の漢方医と西洋医の相互理解・学修による総合的な共同研究での治療成果、化学薬品の副作用問題のクローズアップなどが誘因となり、漢方医学の復興の勢いが強まりました

東洋医学に関する学会、漢方の流派による私塾・研究会、セミナーなどが活発になり、さらに東洋医学・漢方関係の書籍・雑誌の発刊が盛んになりました

また漢方薬の製薬会社で、生薬から抽出したエキスを細粒や錠剤に製剤するようになり、漢方を推進する各界の流れもあり、昭和42年(1967年)に健康保険(薬価基準)に漢方エキス剤6品目が初収載されました

このように「漢方医」というもの存続は絶たれたものの、漢方薬を用いて人々の健康を守るという道は先人のはかりしれない努力と研鑽により存続し、これまでに確立された流派も残っています

医師の処方によるもの、一般用医薬品として薬局で販売しているもの、薬局製剤として漢方相談薬局で販売しているものと、現在でも漢方薬は身近なところにありつづけています

投稿者:

Hinatakaitendo

薬局開設者・管理薬剤師